第一部:カーボンインセットとは何か——概念の整理
インセットの定義と特徴
カーボンインセット(Carbon Insetting)とは、企業が自社バリューチェーン内でGHG排出削減・除去プロジェクトに投資する手法を指す。Bipartisan Policy Centerの2025年10月の解説によれば、インセットの本質は「バリューチェーン内における排出削減への直接投資」にあり、サプライヤーとの既存の信頼関係を活用してプロジェクトの追加性やデータ整合性を確保しやすい点に構造的メリットがある。
オフセットとの最大の違いは、投資対象の所在である。オフセットはバリューチェーン外のプロジェクト(例:ブラジルの森林保全)に資金を投じ、その削減量を「相殺」として主張する。一方、インセットは自社のサプライヤーや調達先での削減に投資するため、結果として企業のScope 3排出量そのものが減少する。SBTiの枠組みにおいて、オフセットは排出削減目標とは別に報告する必要があるが、インセットは自社インベントリの直接改善として計上できる点で有利とされる。
カーボンインセットが注目される背景
Sustainable Brandsの2025年11月の報道によれば、多くの企業でScope 3排出量が総フットプリントの90%以上を占める。SBTiの2030年目標達成に向けて、サプライチェーン上流での削減は避けて通れない課題となっている。
具体的な実施例として、Mars Inc.とFonterraの酪農排出削減投資(2,700万ドル)、PepsiCoとFertibriaの低炭素肥料プログラム、PrimarとMaerskのバイオ燃料導入などが挙げられる。これらはいずれも「バリューチェーン内の特定サプライヤーへの直接投資」という共通点を持つ。
第二部:ネイチャー分野への応用——「ネイチャー・インセット」という発想
カーボンからネイチャーへの概念拡張
カーボンインセットの構造的優位性——バリューチェーン内への直接投資、サプライヤーとの信頼関係活用、プロジェクト整合性の確保しやすさ——は、ネイチャー分野にも応用可能である。
ただし、ネイチャー分野でのインセットは、カーボンとは異なる価値提案を持つ。カーボンインセットの主眼がScope 3排出量の削減とSBTi目標達成にあるのに対し、ネイチャー分野では以下が主要な価値となる。
第一に、原材料調達の安定性向上である。土壌劣化、水資源枯渇、花粉媒介者の減少は、農産物・繊維の収量と品質に直接影響する。再生型農業への投資は、これらの自然資本の回復を通じて調達リスクを低減する。
第二に、生態系サービスの回復である。バリューチェーン上流の農地・牧草地における生物多様性向上は、土壌健全性、水循環、害虫の自然抑制といった生態系サービスを強化する。
第三に、TNFD開示への対応である。TNFDはバリューチェーン上の自然関連リスク・機会の特定と管理を求めており、サプライチェーン内での生物多様性投資はリスク緩和策として直接的に位置づけられる。
なお、「ネイチャー・インセット」という用語は現時点で標準化されておらず、本稿ではカーボンインセットの概念をネイチャー分野に応用した取り組みを便宜的にこう呼ぶ。
先進事例(1):Keringの「Regenerative Fund for Nature」
ラグジュアリー企業Keringは2021年、Conservation Internationalと共同で「Regenerative Fund for Nature」を設立した。初期投資額は500万ユーロ(5年間)、目標は100万ヘクタールの農地・牧草地を再生型農業に転換することであった。
2023年にはInditexが参画し、2024年末時点で13プロジェクト・8カ国において110万ヘクタール・10.5万人の受益者に到達した。Keringは2025年12月、当初目標を超過達成したと発表している。
このファンドの特徴は、綿花、皮革(牛・山羊・羊)、カシミヤ、羊毛という同社のコア原材料に対象を絞っている点にある。これはまさに「バリューチェーン内」への投資であり、外部の自然保護プロジェクトへの寄付とは本質的に異なる。
WBCSDの2025年7月の報告によれば、Keringのアプローチは「サプライチェーン内の再生」と「サプライチェーン外の生態系保全」を組み合わせた二重戦略であり、前者がインセット型、後者がより従来型の保全投資に相当する。同社はこの二つを明確に区別して管理している。
具体的なプロジェクト例
スペインでは、Fundación Global Natureが山羊放牧農家と協働し、伝統的放牧システムの復元を進めている。1.1万ヘクタール以上が再生型管理下に置かれ、湿地を含む高生物多様性価値地域の保全と農家の生計向上を両立させている。トレーサビリティシステムの構築により、再生型実践から生まれる価値が農家に直接還元される仕組みが設計されている。
南アフリカのマルティ・ドラケンスバーグ山脈では、Conservation South Africaが9つの共同放牧組合(約280名)を支援し、羊毛産業へのアクセス改善と生態系機能の向上を同時に追求している。特に女性農家のエンパワメントに焦点を当てている点が特徴である。
先進事例(2):Nestléのインセット型再植林プログラム
Nestléは明示的に「インセット」という用語を使用している数少ない企業の一つである。同社のGlobal Reforestation Programは、オフセット型(排出源と無関係な場所での植林)ではなく、インセット型(サプライチェーン内の農場での植林)アプローチを採用している。
同社の公式サイトには次のように記されている。「当社の再植林プログラムはインセット型アプローチを採用しています。植樹は、原材料が栽培・収穫される農場、またはその周辺で行われ、アグロフォレストリーの原則を適用します。」
対象原材料にはパーム油、大豆、紙、コーヒー、ココナッツが含まれ、プロジェクトはブラジル、コロンビア、コートジボワール、メキシコ、ベトナム、オーストラリア、中国、ホンジュラス、ニカラグア、タイの10カ国で展開されている。
Nestléがインセット型を選択した理由として、同社は以下を挙げている。
- 樹木は周囲の作物に水と養分を供給し、農家の水使用量削減と収量向上に寄与する
- 根による土壌保持と樹冠による雨滴衝撃の緩和が土壌浸食を防ぐ
- 多様な種の自然生息地を提供し、生物多様性を向上させる
- 農場の効率性、気候適応性、気候レジリエンスが向上する
- サプライヤーとの関係強化につながる
これらの便益は、バリューチェーン外での植林では得られない。調達先農場の生産性と持続可能性が直接向上するという点で、インセット型の本質的価値が表れている。
カーボンとネイチャーの統合——再生型農業の二重便益
再生型農業は、カーボンインセットとネイチャー・インセットの交差点に位置する。土壌炭素隔離によるGHG削減(カーボン価値)と、土壌健全性・生物多様性の回復(ネイチャー価値)を同時に実現するからである。
ただし、両者を混同すべきではない。カーボンの文脈では、再生型農業の価値は主にScope 3排出量削減とSBTi目標への貢献として評価される。一方、ネイチャーの文脈では、TNFDが求める自然関連リスクの緩和と生態系依存度の管理として評価される。
企業が再生型農業プログラムを設計する際には、この二つの価値提案を明確に区別し、それぞれの開示フレームワーク(気候:TCFD/ISSB、自然:TNFD)に適切にマッピングすることが求められる。
第三部:サプライチェーンレジリエンスとしてのネイチャー投資
気候変動と自然資本劣化の調達リスク
ネイチャー・インセット型投資の経営合理性は、調達リスクの低減にある。Regrow Agの2025年1月のレポートは、気候変動による農業収量への影響と、再生型農業のレジリエンス効果を分析している。
同レポートによれば、被覆作物、不耕起栽培、輪作の多様化といった再生型実践を導入した農地は、干ばつや洪水などの気候ショック時に収量減少を14〜90%抑制できる。これは調達企業にとって、原材料価格の安定性と供給継続性という形で財務的リターンをもたらす。
WBCSDは、気候適応・レジリエンス投資の評価フレームワークとして「ハザード(気候イベントの確率と規模)× エクスポージャー(当該地域の資産量)× 脆弱性(予想される影響度)」を提示している。再生型農業への投資は、このうち「脆弱性」を低減する効果を持つ。
TNFD開示における位置づけ
TNFDは2023年9月に勧告を公表し、2024年1月時点でLVMH、Keringを含む320社が早期採用を表明している。食品・農業セクター向けガイダンス(2024年6月)では、土壌健全性の低下、花粉媒介者の減少、栄養汚染が主要なリスク要因として特定されている。
FAIRRの2023年の調査によれば、世界の食品・農業企業79社のうち63%が再生型農業への言及を行っているが、正式な数値目標を持つ企業はその半数にとどまる。財務目標まで設定している企業はNestlé、PepsiCo、JBS、Sodexoのわずか4社(8%)であった。
この乖離は、TNFD開示の普及に伴い縮小していく可能性がある。バリューチェーン内での具体的な投資実績は、「リスク管理」セクションにおける説得力ある対応策として機能するためである。
日本企業への示唆
日本企業にとって、ネイチャー・インセット型投資は以下の文脈で検討に値する。
第一に、食品・繊維・化粧品など自然資本への依存度が高いセクターにおいて、海外サプライヤーとの協働プログラムを構築する選択肢となる。特に東南アジアや南米からの調達を行う企業にとって、森林破壊フリー調達の取り組みと組み合わせて検討することが合理的である。
第二に、TNFD開示への対応において、「リスク緩和策」の具体例として活用できる。単なる「モニタリング強化」や「サプライヤーへの要請」ではなく、「バリューチェーン内への直接投資」として説明することで、投資家・評価機関への説明力が高まる。
第三に、カーボンとネイチャーの統合戦略として位置づけられる。再生型農業プログラムは、FLAG(Forest, Land and Agriculture)セクターのScope 3削減と自然資本対応を同時に進める手段となり得る。ただし、両者の価値提案と開示要件は明確に区別して管理する必要がある。
留意点として、ネイチャー・インセットに関する標準的なフレームワークや会計手法は現時点で確立されていない。カーボン分野ではGHGプロトコル、AIM Platform、Verra、SustainCERT等による基準策定が進行中だが、ネイチャー分野では企業ごとの試行錯誤が続いている状況である。先行企業の事例を参照しつつ、自社の調達構造に適した設計を行うことが求められる。
参考文献・出典
- Bipartisan Policy Center “Carbon Energy Insetting Voluntary Market” (2025年10月) https://bipartisanpolicy.org/explainer/carbon-insetting-101/
- WBCSD “Regenerative agriculture in fashion: Kering’s transition” (2025年7月) https://www.wbcsd.org/resources/regenerative-agriculture-in-fashion-kerings-transition/
- Conservation International “Regenerative Fund for Nature 2024 Annual Report” https://www.conservation.org/projects/regenerative-fund-for-nature
- Nestlé “Reforestation: more than planting trees” https://www.nestle.com/stories/reforestation-project-one-tree-planted-biodiversity-climate-change
- Nestlé “Our approach to nature, biodiversity and the environment” https://www.nestle.com/sustainability/nature-environment/approach
- Sustainable Brands “The Solution to Your Scope 3 Problem: Insetting, Explained” (2025年11月) https://sustainablebrands.com/read/the-solution-to-your-scope-3-problem-insetting-explained
- FAIRR “Food Sector Making More Promises Than Progress On Regenerative Agriculture” (2023年) https://www.fairr.org/news-events/press-releases/food-sector-making-more-promises-than-progress-on-regenerative-agriculture
- SustainCERT “Insetting vs offsetting in climate strategies” https://www.sustain-cert.com/news/company-climate-strategies-inset-vs-offset
- Regrow Ag “How Regenerative Agriculture Helps Secure Supply Chains” (2025年1月) https://www.regrow.ag/post/securing-your-supply-chains
- Just Style “LVMH, Kering adopt nature-related corporate reporting” (2024年1月) https://www.just-style.com/news/lvmh-kering-early-adopters-of-nature-related-corporate-reporting/



